富士山は20年以上前に2回登った。70才を過ぎた今は、富士登山は周りに迷惑をかける以外の何物でもないので、宝永山に登ることを思い立った。しかし、この考えが少し甘かったことは後にわかる。7月の末、静岡県側の富士宮登山口の五合目まで富士宮からの富士急バス(第一便)に乗り、五合目での入山登録を済ませ朝8時20分頃に出発。宝永山の方に向かう水平の樹林帯の道を進む。途中、ブルドーザー道を越えて行く。樹林帯を抜け、宝永第二火口縁に出る。次図の地理院地図の3D表示で下の中央にある火口縁がそれである。
宝永山

火口縁からザレ場の登りが始まる。しばらく登ると、六合目の宝永山荘からの道と合流する(こちらの道を使う人が多い)。次の地図は、今回(今夏から)ダウンロードして入山証を得るために使った富士山navi(静岡県)の地図になる。下側の茶色い丸が現在地になる。5分下ると、宝永第一火口の底に出る。ここは、1707年(宝永4年)の宝永大噴火の際の火口になる。ここから下の地図によると45分で火口の上の稜線に出ることになっている。3回のつづら折りの登山道になっている。ここで、登山者について説明しておくと、圧倒的に下山者が多い。宝永山に向かっていると思われる登りの登山者は極わずかである。火口の底の付近では落石に注意との看板もあった。火口の底からは第二火口縁からのザレ場よりも火山礫のザレの度合いは、さらに増して一歩登る毎に半歩沈み落ちるのを何度も繰り返し、10cm足を進めるのがやっとという状態になる。下山者は「須走」の状態で、乱暴な下山者は1mも登山道の礫を押し下げながら走り下って行く。このような登り下りが共存する一般登山道を未だかつて歩いたことはない。落石のあるような急な壁と異なり、登山道は火山礫が積もり、ザレの集積になっている。第一のつづら折りの地点までの登りが長く、大変であった。この間、高齢の夫婦のような組と中年男性の二人組を追い越したが、彼らと同様私もへとへと。ここで道は「く」の字に折れるが、その上を見渡し、このザレ場を越せるか断念することも考えた。

日本人の登りの登山者は、宝永山が富士山の中では楽だと騙されて来ているのだと思うが、欧米からと思しき若い登山者が数人追い越していった。いずれも単独行で若く、身軽に見えたが、なぜこの登山道を行くのかは不思議。長く休憩した後、くの字の道に入った。前より短い区間だがなかなか進めない。ここでも欧米人が一人抜いて行った。極度に疲れ第二のつづら折りの地点に来た。ここでも長く休憩し、いよいよ断念するかどうか迷っていたが、抜いて行った欧米人が立ち止まり長くスマホか何かを見ていた地点に注目した。そこは次のつづら折りの地点のように見えた。そこを目指して登って行った。相変わらずザレ道は続き、中年男性の二人組はかなり下の方にいたが、ふと、宝永山頂の方からの道で下山してくる人がいた。その人が、先程の欧米人の地点まで来ていたので、そこまで気力を振り絞る。その地点はつづら折りの分岐点で、火口壁の稜線へ富士山頂の方向へ行く道(左)と宝永山頂に直接行く道(右)の分岐点になっていた。火口壁の稜線からは急な崖があり、落石防止のためもあるが、右の道は特別に宝永山頂へ行く登山者のための道であった。そのため、ザレ道のザレ度合いがかなり低く。礫も冬場に下に落ちていったのであろう。そのことが分かり、気力を回復し、余り時間もかけずに宝永山に向かう火口壁の稜線へ登り切った。


この図は、前図の高さ(標高)方向の倍率を2倍にして、蟻地獄を強調した図。上端は、富士山頂。蟻地獄の上端は七合目を越える高さにあり、蟻地獄の上部で富士宮口登山道と御殿場口登山道を横断する道は断崖ゆえに設定できない。これが宝永山頂への登山路が下から登るには、宝永第一火口の底からのスバシリの道しかあり得ない理由になる。


富士山頂を臨む。この地点は、宝永第二火口縁のザレ場の登りなので、ザレの程度はまだまだだが、宝永第一火口の底からは、上の写真の道の端の斜面のような感じのザレが始まる。

宝永第一火口の底から宝永山頂を見る。


宝永山山頂に着いた頃には、雲もだいぶ出て来たので、長居をせず下山を始めた。
六合目の宝永山荘への方向の道との分岐では、当初は山小屋の富士宮焼きそばを食べに寄る予定だったが、止めた。登山靴が完全に壊れかけ、富士山の下山道を歩くのに気が引けたから。朝と同じ樹林帯の道を引き返し12:20頃に五合目に戻ってきた。出発から4時間ほど経過。
登山前にYoutubeで見た動画では5時間ほど時間をかけていたものもあり、簡単に登れる宝永山との違いを感じていたが、その背景にある実体はこういうことだった、というのがよく分かった。つづら折りのザレ道での蟻地獄、砂(礫)地獄は動画に撮る気力も無くすほどの難行苦行である。
五合目からの下山の富士急バスは13:00に出発して、富士宮に戻った。
下の写真が家に戻ってきた登山靴の状態。靴底もほとんど剝がれ落ちかかっていた。

この登山靴は、私が30才になる前に買ったもので、既に40年以上も経っているので、こうなっても不思議ではなかった。前夜ホテルで持った時に、何か軽いな、やわらかいなと、感じていた。大学生で北アルプスの表銀座の縦走をした時には、昔の人は知っているキャラバンシューズという青色の軽登山靴を履いていた。それは高校の時の学校の北アルプス白馬岳の登山行事のために買ったものだったが、その縦走の最後に縫い目が擦り切れて壊れてしまった。その後、友達のお古の登山靴をしばらく使い。その後に買ったのが、現在の3代目の登山靴になる。時代は変わり、登山ブーム、百名山ブームが起き、それにともない登山道具、登山ウエアのメーカーも新しく増えた。私は、時代に取り残され、今でも現役で使っているのは40年前のレインウエアとザック(これは買い替えた。Zugspitze)だけ。昔の定番のニッカズボンもとうにはけなくなり、ジーンズで登っている。新しいメーカーの登山ウエアは買ったことがない。
ただし、もし、今回ストックを持っていたならば、難行苦行がどの程度軽減されていたのか、どうかはわからない。
百名山の中で私が登ったのは、2回登った槍ヶ岳、剣岳、富士山を重複して数えても、奥穂高岳、宮之浦岳、赤岳、立山他の20数個くらいのもの。残念ながら、登山を含めて、日記のたぐいの記録を残してこなかったので、いつ、どの山に登ったかの記録はない。年金生活に入ってからは、人に迷惑をかけるので登山は止めて、散歩だけにしている。しめくくりとして、計画した今回の宝永山が、登頂断念にならずに、頑張れたのは、これまで登頂断念が一度もなかった私としては、72才の記念となった。
旅のまとめ
時間が前後するが、富士宮の富士山本宮浅間大社に登山前日の夕刻に参った。全国にある浅間神社の総本山であり、富士宮はその門前町になる。富士山頂上には奥宮がある。壮大な鳥居は遠くからでも見える。暑い日の夕刻であったが、広い境内に隣接した湧玉池は神田川/潤井川/富士川とともに涼感がたっぷりだった。富士駅から富士宮を通る身延線は、やがて富士川に沿って北に進み、甲府に出る。今回の旅行では、前日に東海道線の国府津から御殿場線に入り、最初は右に丹沢左に箱根を見て進み(山北)、次に(御殿場)右に富士山、左に箱根と変わり沼津に出た。沼津で途中下車して沼津港まで歩き海鮮丼を食べた(帰りはバス)。
こうして、普段は関東造盆地運動の結果生まれた東側の東京湾のへり(横浜)側から見ている富士山の方向を、富士山の側に来てゆっくり見て来た。
初日は歩数でいえば16,000歩、二日目は20,000歩だが(蟻地獄での一歩をどう計測しているかは不明)、単純な歩数では測れない。標高差300m(五合目-宝永山頂)+270m(宝永第一火口の底-宝永山頂)からも測れない貴重な体験をした。
[夢想ではあるが] もし、強制的に宝永山にもう一度登って来いと言われたら、私は、富士宮口の五合目から、七合目、八合目と何泊か山小屋に泊まり、ご来光を見て、高度順応しながら、最後は朝8時頃に富士山頂を目指す方を、間違いなく選ぶ。新しい登山靴を買い、下山する余力を常に確保していれば(これまでの登山で、ほとんどの場合下山は走ってでも下りられる足の余力は残していた)、たとえ撤退することになっても、そうではなくても、だれにも迷惑をかけずに行ってこれる。富士山naviの地図を使ってそれを想像してみるのも楽しいだろう。

























