囲碁と素数

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第18回 神奈川の地史、地形

私の住んでいる横浜近辺は谷戸(地形)が広がる。また、鎌倉の地史、これは鎌倉散歩に便利なもので

「鎌倉の自然」H13年度版、鎌倉市教育委員会刊 

娘が学校で使った教材をもらった。さらに

「大いなる神奈川の地盤」(社)地盤工学会関東支部神奈川県グループ、技報堂出版2010年

下図は口絵の地質層序と地史から転載(図-1.26, -1.27口絵-1も同書)、これらを参考にして神奈川の地形をみていきたい。

横浜の谷戸地形

先ずは、横浜近辺の谷戸地形から。

多摩丘陵とのつながりをもった、下末吉台地相当の谷戸地形が下図の薄茶色として広がっている。

帷子(かたびら)川と大岡川に挟まれた部分を拡大すると次のようになる。

JR東海道線横須賀線横浜駅(右上)から斜め左下に、戸塚方面に向かっている。この地図だけでは、広さ、大きさのイメージがわかないと思うので、地理院地図の4Kmの縦横(東西南北)の3Dモデルで切り出した範囲を谷戸地形の高低がイメージし易いように高さ方向の倍率5倍で表示したものが次図。下側が横浜の方向になる。

左右に大岡川と帷子川の支流の今井川が見える。両川の分水嶺になる黄色で色付けした尾根筋がある。尾根筋、谷筋自体が非常に複雑に入り組んだ地形であることが分かる。4Kmの範囲ということは、砂漠や、大平原のような地形で丸い地球の水平線が見える距離、範囲に相当する。日本の都会のような地形では、地平線を想像することは難しいが、これらの尾根筋のような高いところから見える範囲と関係付けることができる。

ちなみに、この両川に挟まれた部分の横浜港を見下ろす野毛山の丘の上に横浜開港に尽くした井伊直弼銅像が立つ。反対側の帷子川近くを通る(旧)東海道では、井伊直弼桜田門外の変で暗殺された、2年後(1862年)に生麦事件が鶴見で起き、薩摩藩島津茂久の父・島津久光大名行列が一つ先の保土ヶ谷宿まで駆け抜けて泊まった。そこもこの谷戸地形の中にある。上図の右下辺り。

これらの地形の成り立ちを理解するためには、海の変遷、前の口絵図にあった地質層、層群の積み重ねの3000万年の歴史をみる必要がある。ちなみに、江戸時代には横浜は砂州のある小さな漁村であったし、東海道も海に近い低地から保土ヶ谷宿の先で谷戸にさしかかり、やがて権太坂などのある尾根筋に上がって南に進んでいた。旧東海道から見て、現在の国道1号東海道谷戸の中の低地、谷筋を走るように見えたハズ。上図の右下から赤色で示す国道1号が戸塚方向へ行くが、左に曲がって行く先は谷戸の高いところの影になって見えない。JR東海道線横須賀線の線路も、その先でトンネルに入る。トンネルを出た先が東戸塚

鎌倉

横浜から南に下っていくと大船で横浜市から鎌倉市に入る。

次の3図は「鎌倉の自然」からの引用になる。横浜市の南端から鎌倉の海までの断面A’-A

とB’-Bでの地層の変化を表す図になる。これらの地層の形成年代を表すのが、その次の図になる。

これが、前の口絵図の地質層序の横浜・三浦の部分に対応している。

それでは、これらをどう読み解くか。

海の変遷

話を理解し易くするために、海の変遷を大まかにとらえたいと思う。大昔、500万年前には丹沢山地の地塊が日本列島に衝突、やがて100万年前には伊豆が衝突して伊豆半島となる。

これらプレートテクトニクスに基づく話は、前提になるが、ここでは長く煩雑になるので割愛する。それで当然ながら、この古い時代には丹沢山地などの列島の南は海であった。この海中で堆積していたのが三浦層群で、前の「鎌倉の自然」図では逗子層、池子層となる。伊豆が衝突したことによりその東側の地域でも影響を及ぼし、不整合があり、上総層群、さらに相模層群が堆積した。これらは浅い海での堆積層。長沼層、片瀬層まで。この時期では、海は広く古相模湾から古東京湾とつながっていて、50万年前頃には鎌倉から三浦半島の中部にかけては三浦島になっていた(次の図、「大いなる神奈川の地盤」から)。三浦半島の中部は、葉山層群という、さらに古い時代(1500万年前)の付加体からなる。口絵の地質図、参照。

30万年前頃になると多摩丘陵から三浦にいたる地域は隆起してつながり、古三浦半島としてつながり、海は古相模湾と古東京湾に分かれた。

山の変遷

次に、山に話を移し、神奈川県の周辺にまで視野を広げる。時代としては、これまで話してきたよりも昔の時代に戻る。日本列島の骨格をなすものが、ユーラシア大陸の縁(ふち、へり)から別れ、日本海の拡大とともに現在の位置に移動してきたのが、2500万年前頃からになる。関東では、これら基盤岩の陸地は関東山地をはじめとしたところになる。

黄色は、神奈川県の左上隣にある山梨県の範囲を示す。

関東山地は地質的には西日本、中央構造線から連なる三波川帯、秩父帯、四万十帯の配列を持っている。その後、その南側に前に述べた丹沢山地などが後から形成された。関東山地の一番南に属する四万十帯には相模湖層群などがある。口絵図の紫の部分。相模湖は中央本線に沿ったところにある(直ぐ南に隣接)。そして時代が古第三紀から新第三紀の中新世に進んで丹沢山地、丹沢層群が形成された。1000万年前頃(口絵図の緑の部分)。

次の図3-1は、これらの位置、地質を表す。

日本海の拡大と伊豆孤の衝突、藤岡喚太郎、平田大二、講談社ブルーバックス 2014年 から。

また、房総半島での地層写真も示す。

日本列島5億年史、高木秀雄、宝島新書 2020年 から。

チバニアンという地質年代が何年か前に話題になったが、チバニアン命名されたのがこの時代(約77万年前~12万9千年前/新生代第四紀更新世中期)、地磁気の逆転を示す地層としても名高い。

チバニアンは何がすごいのか?海から生まれた房総、地殻変動による大隆起が生んだ奇跡 | WELLSOL | 【公式】Sport & Do Resort リソルの森 (resol-no-mori.com)

から、引用。

チバニアンの最後、13万年前は最終間氷期で、世界的に温暖な高海面期にあたる。この海進は、下末吉海進と呼ばれ、前に出てきた下末吉台地に由来しています。下末吉台地はこの時期の古東京湾岸の浅い海に堆積した下末吉層(口絵図の水色の最上部分)からできています。多摩丘陵下末吉台地の境がこの時期の海岸線となります。

三浦半島はこの時期、横浜市南部で多摩丘陵と細長くつながっていて、前出の図3-1のように、つながる地層が三浦半島と房総半島にもあり、前出の三浦層群と呼ばれる。

三浦半島から鎌倉、大船、横浜と北上してまとめると

三浦半島から鎌倉、大船、戸塚、横浜(駅近辺)と北に上がって行くにしたがい、新しい時代の地層となり口絵図にもあるように長沼層、舞岡層(舞岡は戸塚の東に位置する)と続き、前出の下末吉台地、下末吉層までが現れる。ここで多摩丘陵と接続する。

さらに、時代が進み更新世後期には箱根火山、富士火山の噴火があり、関東にもローム層が堆積する。

沖積層

神奈川県の東部には、現在、多摩丘陵相模原台地のような起伏がゆるやかで平坦な地形が広がっています。これらの形成には相模川などの河川による浸食、堆積作用と先の箱根火山、富士火山などの活動が役割を果たして来ました。

氷期間氷期の繰り返しは、海水面の上下変動をもたらし、氷期の海進と間氷期の海退を繰り返し起こした。土砂が堆積して沖積層が形成されました。海退期には河川の砂礫が堆積し、海進期には海が内陸まで入り込み泥や砂が堆積しました。二万年前の最終氷期には海岸線は現在よりも120mほど低くなり、一万年前頃から温暖期が始まり、縄文海進(6000年前)の最も暖かい時期には、海面が現在よりも30~40m上がり、広い内湾が形成されました。最初に述べた谷戸の地形は、陸の奥深く海が入り込み複雑なリアス式海岸を形成した結果です。私の住む、保土ヶ谷近辺の谷戸地形では、標高50~70mの高さがあり、川からの標高差もそれ位になる起伏がある。

なお、東京湾の中の大型船の航路となっている水深500mもある古東京川と呼ばれる地形はこの頃の河川が浸食した結果です。

こうして、弥生時代から江戸時代を経て現代へと現在、私たちの見る風景、地形が形成されて来ました。